河村・名古屋市長が20日、中国・南京市の中国共産党幹部と会談した際、「いわゆる南京事件というものはなかったのではないか」と発言した(とされる)問題が議論を呼んでいる。
当の河村氏は意見を翻すつもりはないそうだ。
私は歴史の専門家でも何でもない。
この問題に対する感想は書き留めておこうと思う理由は、先の原発を巡る議論と同じ問題の構造を見出さずにはいられなかったからだ。
当初の報道では同氏の発言は「二十万、三十万という単位での虐殺はなかった」という趣旨のものだったとされていた。当たり前のことだが、これは「虐殺があった」か「虐殺がなかった」かとは、まったく異なる話だ。たとえ犠牲者が1人であっても、虐殺があれば「虐殺はあった」のであり、「虐殺はなかった」と言えば嘘になる。もちろん一方で、非戦闘員5万人が戦闘に巻き込まれ犠牲になったことを、意図的な標的とされたかのような脚色を加えながら「数十万人が虐殺された」と言えば、これもまた真っ赤な嘘である。
日中戦争(支那事変でも十五年戦争でも好きなようにお呼び下さい)史は門外漢の私でも、日本政府と中国政府の間に犠牲者数について認識に数倍の開きがあることを知っている。
常識的に考えれば、一般市民に偽装したゲリラの掃討に手を焼いた日本兵が住民もろとも無差別に攻撃したことは十分にあり得る。そもそも、たとえ数万人であっても市民が戦闘の巻き添えとなって死亡したのであれば、それは異常な事態と呼ばざるを得ない。後のマニラ市街戦などもそうだが、市民の犠牲を避け得なかった責任はいずれにせよ問われるべきである。
しかしその一方で、犠牲者数を極度に誇張することもあってはならない。また、市民を標的にした軍事作戦が遂行されたかのような表現を根拠もなく用いることも許されない。それは歴史の歪曲にほかならない。
問題は、そうした地道な検証は技術的に難しい上に、対立する二つのグループがいずれも積極的に取り組もうとしないことだ。事実を見極めるより、自分に有利(だと思っている)説を皆に信じ込ませるよう画策することがはるかに大事だと考えているようである。
原発の安全性のリスクも、過去の戦争の災禍も、その正確で客観的な評価が極めて難しいという意味では同じである。そのような性質の問題にどう対処するか。
(つづく)